私が能の囃子や謡や仕舞の稽古を始めたのは、両親の影響ですが、大学を卒業して福岡の実家に戻った時は、父は素人ながら師範の資格を持ち、何人もお弟子さんを教えていました。それまで私が見た父は自分自身のことには何も欲がないように見えていたので、父が稽古にはまっていたことにびっくりしました。舞囃子を舞うたびに決まり扇を揃え、謡や能に関する本も次々と買い求めていました。
今考えると、私が稽古を始めたときには、そのおかげで環境が整っていて、好きなだけ能に打ち込むことができたのだと思います。親子3人で趣味の能を楽しんでいるというので、地元の新聞に取材を受けたこともあるくらいです。三人で能を観に行き、三人共に素人会に出演し、母の小鼓私の笛で父が舞ったりということも…。とてもいい時間を過ごせました。
ただその期間は短く、私が稽古を初めて三年目、父は糖尿病にかかり、だんだん立ち居が難しくなってきました。70歳の記念に能を舞うと言っていたのに叶わなくなり、代わりにまだ稽古をはじめて4年目だった私が舞わせてもらうことになったのです。それをきっかけに、私の能への道が広がったと言っても過言ではありません。
とはいえ、もう少し舞台に立って欲しいと思い、私は姉や兄に相談し、父の気持ちを引き立てたいと、70歳のお祝いに色紋付をプレゼントすることにしました。私が選んだ鉄色の紋付を見せたらとても喜んでくれて、その年の会ではその紋付きを着て仕舞を舞ってくれました。
けれども病状はなかなか思うようにならず、入退院をくり返し、謡は謡っていましたが仕舞を舞うことはなくなりました。それでも私が結婚後しばらくして玄人の道を進むことになったときも喜んでくれて、梅若会での最初の能「殺生石」のビデオを食い入るように見てくれたそうです。福岡の舞台に立ったときも、一度だけでしたが体調が良いとはいえない中、大濠能楽堂まで観に来てくれました。
父が一度だけしか手を通すことのなかった鉄色の色紋付は縫い直して、今は私が舞台で使っています。去年私は、私が結婚した頃の父の年になりました。時々鏡を見たとき「私は母より父に似てるかな」と思います。姉も私の舞姿を見ると「お父さまに似てきたね」と言います。
父が集めていた舞扇も本も、すべてが今の私に無くてはならないものです。玄人になってこれらを自分で用意するのはとてもできなかったと思います。
私が父のために選んだ鉄色の色紋付。毎回着るたびに父の姿と重なり、今も守られているような気がしてくるのです。
文中の写真はその色紋付きの紋なのですが、私の実家河北家の家紋です。「剣菱州浜」とか「鬼州浜」とかいいますが、とても珍しいようです。家では相撲取りが組み合っているように見えるので「相撲取り紋」とも言っていました。
大昔の先祖に大蔵永季という方があり、とても相撲が強く、相撲の節会で何度も優勝したことから、相撲の神様として大分県の日田神社に祀られています。
「戦前までは横綱になると必ずこの神社に参ってたんだよ」
「だから家の紋は相撲取りが組み合っている形なんだよ」
と子供の頃に父から何度も聞かされていました。
それが鎌倉時代にできたという、大蔵家それに繋がる河北家の紋の由来なのだそうです。家では男の紋としていて、女は使わなかったのですが、私が能の世界に入ったことによって父から受け継ぎ、思いがけず身に付けることになったのです。