動中の静

私が中学生の頃、家には自分の部屋というものはありませんでした。古い日本家屋ですから部屋数はあっても襖で仕切られているだけで、ひとりで籠もって勉強をするという感じではなかったのです。
私が
「うるさくて勉強できない」
と言うと、父から
「静中の静は真の静にあらず」
と言われ、
「静かな中で静かにすることは誰にでもできる。どんなにうるさい中でも自分を静かに保つことができる、動中の静こそが本物なんだよ
と諭されました。

このところ世の中がコロナで騒がしく、いろいろ思うことがあります。三回目の緊急事態宣言が始まりましたが、その始まる前日にいろんな場所が密になっているというニュースを見ました。
医療が逼迫しているからこその宣言で、本来なら直ぐに発令されるべきところを準備のために何日か先になるわけですから、
「発令されてないから今のうちに遊びに行こう」
とか
「今晩のうちにお酒を飲みに行こう」
とか、駆け込みで動き回るのはおかしな話です。多くの人が動けばその二週間後には悪い結果が出るのは当たり前なのに…。消費税が上がるのとはわけが違うのですから、少し考えたらわかると思うのですが…。

周りが騒がしくなっても、いつも通り気をつけていることを続けながら、自分にとっての「不要不急」でないことは粛々といつも通り行う。できないことを無理してやろうとせず、できることを楽しみ、ことに自分の鍛錬を怠らないよう心がけたいと思っています。その中での思いもかけない発見や学びは自分を育てることに繋がるはずです。
人が同じ方へワーッと動くとき、流されずに立ち止まって静かに周りを見る、それこそ「動中の静」かもしれないと思いました。
その一方、ステイホームで動けないときこそ自分の自由な心をフルに動かす「静中の動」も必要だと思いました。

そういえば能には「動中の静」「静中の動」どちらもあります。じっとしているときこそ、体の中は熱く燃えていなければなりません。思いが止まってしまったら、体の中の気(息の詰め)が抜けてしまったら、完全にその能はそこで終わってしまいあとの動きは別物になってしまうのです(静中の動)。そして逆に激しい動きのあるときには、何があっても慌てない冷静さが必要とされるのです(動中の静)。

気の 溢れるとき 能は 止まっていても 動いている
山村庸子 五行詩集「能のひとひら」より

昔、母に聞いた話もあります。大正時代、母方の祖父の話です。

福岡県久留米市から所要で上京していた祖父は、旅先で足を負傷し入院していたのだそうです。
その時、関東大震災が起こりました。ほとんどの人が階下へ逃げていくとき、祖父はひとりで屋上に上がって周りを見回し、地震につきものの火の手が上がっているのを見て風向きを確認してから、反対方向へ逃げたということです。足が悪く皆と一緒に動けない、ということでよく考えて行動したのでしょう。
昔のことで家とは連絡も取れなかったでしょうし、その後の細かいことはわからないのですが、最終的には愛知の病院に収容されていたということです。家ではもう生存を諦めお葬式を出そうというときに連絡が入ったのだとか…。

冷静な祖父の判断を驚きを持って聞いたことでした。
「何かあったときには慌てずにまず何ができるかを見極めることが大事」
という教訓として、何度も聞かされた話です。

いつまで続くかわからない難しい世の中、自分の外へ向かう気持ちと内へ向かう気持ちのバランスを取るために
「できないことがある分できることがある」(静中の動)
「できることが多い時は自分を見失わない」(動中の静)
と自分に言い聞かせています。

「動中の静」「静中の動」にはマイナスをプラスにする思考へ導く効果もあるように思えるこの頃です。

関連投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る