あの時の男の子

能楽師になって初めの頃、小学校に通っている娘が言いました。
「ママ、学校の友達みんな能って何か知らないんだよ」
子供たちは私の舞台を観に来たこともあり、私の実家には敷舞台があり、扇や写真もたくさんあったので、みんなが能を知らないことに驚いたようです。私も九州では周りに稽古をしている人が結構いたのに、上京して私が能の稽古をしていると言うと
「珍しいものをしてるね」
と言われるのでびっくりしたものでした。
こんなに面白いものを知らないなんて…と思いましたが、考えてみたら私も大学を卒業して実家に戻るまでは能がこんなに面白いということを知らなかったのですから当たり前のことでした。当時の学校では日本史で「室町時代に観阿弥世阿弥が能を大成」ということしか習わないし、他で能に触れることはまるでなかったのですから、家の中で誰かが稽古でもしていなければ、まるで能に縁はないのです。
そう思った私は大学卒業まで、能のことをまるで知らなかった自分が、今能の世界にいてできることの一つに「能の楽しさを能に触れる機会のない人たちに伝える」ということがあるのではないか、と考えるようになりました。

それから知り合いの小さなグループや、地域センターなどで時々ワークショップをしていたその頃(25年程前)小学校の先生をしている高校時代の友人から電話がありました。
「日本史を習う6年生5クラスに日本の文化として能の話をしてもらえないか」
というのです。高校、大学を卒業して以来、彼女に会ったことはなかったのですが、私が能楽師になったというのを人づてに聞いたのでしょう。驚くと同時にとても嬉しくありがたく、「喜んで!」と即答しました。
授業の時間を2時間使っていいけれども予算は交通費くらいしか出ないと…。そんなことは構いません。まるで能を知らない大勢の子供達に能の面白さを伝えられる、やりがいのある仕事です。どうしたら楽しんでもらえるか、能に興味を持ってもらえるかいろいろ考えました。

予算がないので本物の能を見せることはできません。私が持っていた「土蜘蛛」のビデオを用意し、視聴覚室で見てもらうことにしました。ただ映像を見せるだけでは絶対に伝わりません。どういう流れにしたら楽しんで観てもらえるか…。
その当日、お囃子の稽古をしている友人に手伝いを頼み、二人で小学校に出かけました。まず教室で能の歴史を簡単に話し、能の舞台を図面で説明、囃子の道具四拍子の説明をして私の持っていった太鼓や小鼓、能管を友人と実際に打ったり吹いたりしてみせました。またビデオで能を観たときに言葉が少しでもわかるように、土蜘蛛のストーリーを話し、ツレ(胡蝶)とトモ(頼光の家来)の会話の部分を黒板に書き、男の子と女の子に分けて、掛け合いをする体験もしてもらいました。
その体験もあって、その後の視聴覚室でのビデオの土蜘蛛も楽しんで観てくれているように感じました。
先生にお願いして放課後に希望者だけ太鼓と小鼓の体験をさせてあげたのですが、ひとりの男の子のことがとても印象に残っています。
多くの子が並んで順番に太鼓や小鼓を打たせてあげたのですが、一人だけ教室の入り口の扉に寄り掛かり、皆が小鼓を打つのを見て「下手くそ〜」とか「音しないじゃん」とか言ってふざけている男の子がいました。多分やりたいんだろうな、と思い
「君も打ってみたら?難しいけど結構面白いよ」
というと
「いや、俺はバスケの練習あるから…」
といって中に入ってきません。それなのに他の子たちが打っている間に少しずつ近寄ってきていました。皆が打ち終わったあと、遂にそばに来て座りました。
そして小鼓を持たせ打ち方を教えると、他の子たちよりも一生懸命になり、随分長い間音が出るようになるまで打っていました。
後で先生方に伺うと、いつも反抗的な態度が多く扱うのが難しい子なので、小鼓を夢中で打っているのにびっくりしたとのことでした。
私が大学を卒業して最初に稽古を始めたとき、小鼓の音が出なくて悔しくて音が出るまでは…と思っているうちに囃子の魅力にはまってしまったのを思い出しました。「難しいことほどやる気が出る」そういう子なのかも、と思ったことでした。

限られた時間で大変ではありましたが、子どもたちが思った以上に反応してくれて、とても楽しい時間となりました。
後日、先生が子どもたちの感想文を送ってくださったのですが、なかなか的を得た感想が多く、特に能の映像以上に生の謡の声や鼓の音や掛け声、笛の音色などへの興味が多かったのに驚きました。
私の謡の声に
「話す声とまるで違う、どうしたらあんな声が出るのですか?」
という質問はその後何年か経って「声の道場」で和の発声を教えるとようになった、ひとつのきっかけでもあります。
一番最後に鼓を夢中で打ってた男の子、先生から名前を聞いていたので感想文を探したのですが見つかりません。「やっぱりそれほど興味を持ったわけでもなかったのかな」とがっかりしたのですが、その後先生からお手紙とその子の感想文が届きました。
「〇〇君はこれまでこういうときに感想文を出したことがなかったのに今回は提出したので驚き、先生方の間で回し読みをしていて、うっかり入れ損ねてしまいました」
ということ。
その感想文は短く、
「今日は面白かった。これまでで最良の日だった」
というものでした。とても嬉しかったのを覚えています。

あれから15年余り、あの男の子はどうしてるかな、と思います。もう社会人になっている年齢ですが、その後能を観たでしょうか、あの日のこと覚えているでしょうか…。

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