6月19日(日)の梅流会にて、仕舞「天鼓」を舞わせていただきます。
「天鼓」は演能の機会を二度いただきました。その時のエピソードなのですが、ある先生から
「女性が演じるときは、前シテを父親でなくて母親にしたらどう?」
と言われました。
天鼓は理不尽にも権力によって殺された少年天鼓のお話。前シテは年老いた父親、後シテが天鼓の亡霊です。その父親は尉の面をつけるのですが
「女性がお爺さんを演じるのはとても難しいので、お婆さんにしたらいいんじゃないの?」
ということだったのだろうと思います。
私は即
「それは違う気がします」
と言いました。
というのは、同じような形態の「藤戸」の能と考え合わせたのです。
「藤戸」も理不尽に権力者に殺されてしまった若者の亡霊が後シテで、前シテはその母親です。
「天鼓」では父親は宮殿に呼び出されると「罪人の父親だから自分も罰せられるのだろう」とおずおずと帝の前に進みます。権力に対する諦めの境地でしょうか、歎きや悲しみは見えても恨みや怒りはまるで見えないのです。
それに対し「藤戸」の母親は子供を殺した領主に向かい、悲しみと共に怒りと恨みをぶつけます。「自分も我が子と同じように殺してくれ」と相手に詰め寄るのです。
私は同じような場面に向き合ったときの父親と母親の違いを強く感じました。その先生が仰るように、もし「天鼓」の父親を母親にしたら、物語がまるで違う展開にならないと納得できないような気がしたのでした。
梅流会当日の能は「海人」。これも子供のために自分の命を顧みず海へ飛び込む母親がシテです。いつの世も子を思う母親の気持ちは変わりません。
能は前後のストーリーよりも、いつの世も変わらない人の心を中心に描かれます。それが時代は変わっても650年も受け継がれてきた所以なのだと思います。
「天鼓」あらすじ
少年天鼓の打つ鼓の評判を聞いて、その鼓を取り上げようとした帝に、天鼓は呂水に沈められてしまいます。その後内裏に置かれた鼓は誰が打っても音が出ません。鼓が主との別れを悲しんでいるのかもしれないと内裏に父親が呼び出され、鼓を打つように命じられます。父親が鼓を打つと、なんとも言えない美しい音が響きました。帝は己の非を反省し、呂水の畔に鼓を供え管弦講で天鼓を弔います。
天鼓の亡霊が現れ、鼓を打ち舞戯れます。(仕舞の部分)天鼓は恨みも忘れたかのように楽しそうに波に戯れ舞い遊び、鼓を打ち、夜が白むとともに消えていくのでした。
鼓を打つ喜びにすべてを忘れて舞い遊んでいる、そんな少年をお客様に感じていただけるように、自分が楽しんで舞えたらいいなと思っています。
梅流会の詳細は「公演・イベント情報」をご覧ください。