厳しさと温かさと

11月17日、高安流大鼓方の人間国宝、柿原崇志先生がお亡くなりになりました。
お電話でご訃報を伺ったときは、しばらくボーッとしてしまいました。そして次から次から先生との思い出が浮かんできました。懐かしく、そして寂しく悲しく……。

私は崇志先生のお父様、柿原繁蔵先生に小鼓をお習いしたのが能への入口でした。九州の繁蔵先生の会である高安会で小鼓を打つとき、お相手してくださったのはほとんど崇志先生でした。
私の東京での結婚披露宴にも出席してくださり、祝辞とともに謡ってくださった高砂の祝言小謡の素晴らしさは、あまり能に縁のなかった出席者を驚かせ、私が能に傾倒していることをよく知らなかった方たちに、説明なしにわかってもらうことができました。
その後、崇志先生に大鼓を教えていただくことになります。子供をおんぶしてご自宅に伺い、奥様にお預けし、お稽古が終わると当時小学生でいらしたお子様がバス停まで荷物を持って送ってくださったのは懐かしい思い出です。
二人目の子供ができてしばらくのお休みを経て、シテ方での玄人になるお話が出たときには崇志先生は大反対でした。
「女でこれから玄人になっても、なかなか能を舞わせてはもらえないし苦労するよ」
と心配してくださったのです。その時私は40歳で玄人としての出発としては遅いと思われたのかもしれません。けれどもそれを押し切って玄人になってしまうと、今度は一番応援してくだったのは崇志先生でした。あるときは厳しくあるときは温かく…。

お稽古の時のお直しはとても厳しくなり、特に地謡を謡うときは「そんな謡じゃだめ!」と何度もお叱りを受けました。玄人になる覚悟を教えてくださったのだと思います。

それでも最初に玄人として会に呼んでいただいて出勤料までくださったのは崇志先生の青陽会でした。嬉しくて有り難くて熨斗袋を神棚にお供えしたのを覚えています。
自分の能の会を立ち上げて舞わせていただくことになってからも、何度もお相手をしていただきました。四回目の会で「道成寺」を披かせていただいた後の宴会で
「玄人になるとき反対したけれども、素人でいたら今日のような道成寺は舞えなかったと思う。これまでよく頑張ってきた。この先はあなたのように能楽師を目指す女性たちの目標とされるように精進しなさい」
とご挨拶をいただきました。何より嬉しく涙が溢れました。そこまで精進できたかというとあやしいのですが、そのお言葉がこれまでの私を鼓舞してくれたのは確かです。

何度も大病をなさり、そのたびに舞台への思いで蘇られた先生、こんなに急にお別れが来るとは思っていませんでした。寂しいです。悲しいです。でも先生のお言葉を胸に精進を続けます。
本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
            合掌

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