閑心遠目

「心を長閑にもって遠くを見る」
世阿弥が「二曲三体人形図」の中で述べている、老人を演ずるときの教えです。
能はひとりの役者が曲によって、男性、女性、若者、老人、すべての役を演じるので、言いかえればあらゆる役の物まねをするというわけですが、その者に本当になりきろうとしたら「似せよう」という心があってはいけない、と世阿弥は言います。
本当の老人は老いたくない、若く有りたいわけだから、役者が自分から老人に似せようとしてはいけない…。もちろん役のイメージを持つのは大事なはずですが、老人を演じるその際に大事なのが「閑心遠目」というわけなのです。
何も考えず遠くをボーッと眺めていると心が長閑になる、そんな時が誰しもあると思います。肩の力が抜け自然体になっているときでもある。自然に歳を取るということはそういう時間が増えることかもしれません。世阿弥は外見だけを真似るのではなくその心情になることを説いたのではないでしょうか。

この頃私は能にとって「閑心遠目」という言葉は老人を演じるときだけに限らず、基本の稽古に大事なのでは?と思うようになりました。

仕舞をお教えするとき、前はすぐに型を覚えることに入っていましたが、「能エクササイズ」をするようになってからは、型を覚える前に「構え」と「すり足」の稽古を重ね、自然に動けるようになることに重きを置いています。何も考えずに基本の型を身に着けていただくためです。
もちろん曲に入れば行き道を覚えるまでは次にどう動くかを考えてしまうのは当たり前です。ですから、少しは考えても「構え」や「運び」がなるべく崩れないようにした方がいいと思ったのでした。ところが仕舞の曲に入るともうひとつ問題が…。それが目線でした。
仕舞を一番舞うための稽古をするときは、一緒に動きながら型をお教えして、ある程度覚えられてからいろいろお直しするのですが、離れて見ていると目線がなかなか定まらないことが気になります。考えているのはすぐ目に出るのです。少し目線が上がる人、下がる人、目が泳ぐ人…。

「今、型をしながら考えてたでしょう?」
「どうしてわかるんですか?」
考えることで動きが鈍ることもありますが、それ以上に考えるときに目が動く人が多く、それでわかるのです。他にも
「回るときに体より目が先に行ってますよ」
「目線が下がると手の動きがが小さくなりますよ」
などと注意します。

ある程度上手に舞えるようになっても、目線を注意することがあまりに多いので、最初の基本の稽古のときに、もっと「目線」を意識してお教えしなければと思うようになりました。基本の動きと一緒に目線が自然に決まるようになれば、少し何か考えたとしても目線の動きが少なくなるかもしれない…。
これからは行き道を考えなくてもいい、仕舞に入る前の能エクササイズで、「構え」と「運び」に加えて、何にもとらわれず遠くをボーッと見るともなく見る感じの「閑心遠目」をその一環に取り入れてみようかな、と思っているこの頃です。

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