正座と腰掛け

私は、会の皆さんの稽古を長い時間続けるときは、膝に負担が多くなるので、腰掛けて教えさせていただいています。能のときなど舞台での一二時間の正座は大丈夫なのですが、無理をして膝を痛めて舞台の仕事に支障があると困るので、普段はなるべく長い時間の正座はしないようにしているのです。
お稽古なさる方も正座が基本ですが、腰掛けてお稽古の方も何人かあります。ある稽古場では机を挟んでお互いに腰掛けてということもあります。

普段は正座でお稽古の方が、都合で腰掛ける設定の稽古場にいらしたときのことです。
「正座でないとお腹に力が入りません」
とおっしゃいました。これまでもそういう方がありましたし、正座のときはしっかり声がお腹から出るのに腰掛けると喉の声になってしまうという方もありました。
でも私は正座でも腰掛けても同じ発声で謡えます。腰掛けたら謡いにくいということは、腰掛けたときには上半身が保ててないということではないか、言い換えれば正座の上半身になってないのではないか…。
もちろん、腰掛けるときも最初に前に重心が行くよう構えをお教えするのですが、それが身についてないのかもしれません。そうであれば正座のときにできている構えも、もし崩れたとしても自分でわからないかもしれません。

今回は「じゃあ正座でしましょう」とせず、腰掛けたときにもお腹から謡えるようにすることを覚えてもらおう、と思いました。

椅子を机から少し離して、腰の位置が椅子に掛かるという感じで前方に腰掛けます。座るのではなく「腰掛ける」の言葉通りです。お尻が後ろに行くと重心を前にかけようとしてもなかなか掛けられません。骨盤の前に膝が来るくらいに膝を開き、その真下に足先が来るように座ります。そうすれば重心を前に掛けると体重が足の前方にしっかり乗ります。そして腰の根元(仙骨部分)から頭の先に向かい垂直になるよう骨盤を引き上げる。肩甲骨も腰を意識して横に広げるようにして肩の力を抜きます。骨盤を引き上げ背骨、首筋も伸びてますので顔は前に出ません。逆に言うと顔が前に出るときは、背骨が丸くなっているということです。
能エクササイズ」のところでも説明していますが、これで腰掛けても正座と同じ体勢が保てます。腰一点に力が集中し、肩など他のところには力が入らないのが能の舞や謡の基本の構えなのです。

こうやって息をお腹にぶつけるように、と声を出してもらっていたところ、普段より強くボリュームのある声が出るようになりました。やはり正座のときも、そこまで「上半身が保ててなかった」ということに気が付かれたようでした。

和の構えがしっかりできているときは、腰がお臍を少し下方に押している感じがするのですが、それについてある先生から面白い話を伺いました。

昔、大鼓の名人が弟子の稽古のときに
「臍で舞台を睨みつけろ!」
と言われていたということなのです。大鼓は重い道具を左膝に載せ打つわけですが、その形で上半身を安定させるためには、そういう意識で重心を定めることが必要なのだろうなと思いました。

考えてみると私は「声の道場」の本の中にエピソードとして、ある大鼓の先生がお孫さんの稽古で掛け声を直すのに

「腹を膨らませて!」

と注意なさる話を書きました。これも小さい子に教える場合には同じ効果があり、掛け声が強くなること=下半身が安定すること、なのではないかと思います。


私も出産後に太鼓の稽古に戻ったとき、撥を上下させると上半身が揺れ、腰が緩んでいるのにびっくりしたことがあります。揺れないように打つには相当腰を入れた構えができるようにする必要がありました。掛け声も上ずっていたのではないかと思います。
舞も上半身が揺れないようにするには、下半身がしっかり安定して動けるような重心の移動をすり足でしなければなりません。
能は「重心の移動の芸術」と言ってもいいと思っています。
それは謡を謡うときも同じです。舞を舞いながら謡うこともあります。また床几にかけたまま謡うときもあります。いつも正座で謡うわけではありません。
ですから稽古のときに、椅子に座るのは楽をするためではなく、本当の意味で腰を掛けて、上半身を安定させて謡えるようになるための大事な稽古なのだと、改めて思いました。

❲巻頭の腰掛けた影絵のイラストについて❳

普通に腰掛けた姿勢としてはとてもいい姿勢ですが、謡のときの構えは少し違います。もう少し前に腰掛け、重心が足に乗るように前傾し、それから骨盤を引き上げ上半身を安定させます。興味のある方は硬めの椅子で試してみてください。和の稽古事をなさっている方には参考になるかもしれません。

関連投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る