追善の仕舞

楠森堂の会を両親の追善の会にしたいと、鷹尾維教先生、章弘先生にご出勤をお願いしたところ、両親への追善の仕舞をお申し出くださいました。

私は大学を卒業してから、両親が教えていただいていた、両先生のお父様である鷹尾祥史先生に弟子入りしました。当時お二人は小学生。夏休み等には楠森堂に遊びにいらしたこともありました。このところの楠森堂の会にはいつも来て下さり、そのたびに懐かしんでくださっていました。

「お母様は確か井筒の能をご覧になった翌日にお亡くなりになったんでしたよね。井筒と融の仕舞を僕たちにも手向けさせてください」
とご連絡をいただいたのです。二十年以上前のことなのに覚えていてくださったのがありがたく、涙が出そうになりました。

当時、梅若桜雪(六郎)先生は「六郎の会」を各地で催されていて、福岡でも開催されました。その時の演目は「碇潜(いかりかつぎ)」といって、平知盛の壇ノ浦での最期を描いた能だったのですが、東京から福岡へ発たれる間際に先生が腰を痛められ、急遽演目が「井筒」に変更になったのです。
装束などはもう発送済み。書生さんもいらっしゃらない、ということで福岡出身の私に連絡があり、井筒の装束を持って先生と一緒に福岡へ伺うことになりました。改札で迎えにいらしていた鷹尾兄弟に御装束をお渡しして、母の居る久留米の実家に帰りました。
母は「六郎の会」の会員で翌日の催しには伺うことになっていました。思いがけずの帰省になった私も実家に一晩泊まり、一緒に拝見させていただくことにしました。母は

「井筒になってよかった!」

と喜び、私も久しぶりに母との観能を楽しみました。
終演後には母や姉、友人と夕食を一緒に囲み、私は翌日午前中に仕事があったので、夜の便で東京に戻りました。空港から電話をすると

「あなたも忙しいから体に気をつけてね」

と労ってくれました。
それが母と交わした最後の言葉になるとは思いもよりませんでした。

翌朝午前中に仕事が終わったところに兄から電話があり、母が亡くなったと…。信じられない思いでそのまま空港に向かいました。
葬儀で鷹尾家三人の先生方を中心に謡ってくださった「江口」の心に滲みたこと…。
そういうことが走馬灯のように蘇りました。

今度の追善の会、両親もとても喜んでくれることと思います。

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