私が初めて能の世界を垣間見たのは、大学を卒業してすぐの頃でした。それよりずっと以前から、謡や仕舞の稽古をしていた福岡の両親は、趣味が高じて8畳の座敷を板張りにして敷舞台に改装し、家を謡や仕舞、鼓の稽古場にしていました。
大学時代は部活でボウリングに熱中し、全国大会でチームで優勝を争ったり、ブームに乗ってテレビの学生対抗戦などに出たりしていた私は、卒業して実家に戻った頃もまるで能には興味が無く、福岡県連に所属しボウリングを続けていました。
そのうちに何か親と一緒の話題がある方がいいかなと思い、親孝行のつもりで
「声を出すのはいやだけど小鼓なら習ってもいいよ」
と、稽古を始めることにしました。どこかに習いに行かなくても先生が家に来てくださるという気楽さもあったかもしれません。
稽古を始めてまず驚いたのは掛け声でした。
「何これ!」
西洋音楽しか習ったことがなく、能や歌舞伎もまともに見たことがなかった私は、掛け声を掛けて打つことに驚くと同時に、独特の間の取り方にとても新鮮な面白さを感じました。そしていくら打ってもいい音が出ないことに私の負けず嫌いな性格が頭をもたげてきて夢中になり、稽古にはまるのに何日もかかりませんでした。今考えて見ると、私の中にあった日本人の血が騒ぎ出したのかも知れません。
このあと、仕舞、笛、謡、太鼓、大鼓、と次々に稽古を始め、ボウリング熱はどこへやら、大学を卒業して30歳くらいまでの6~7年は、世の中の出来事もすっぽり抜けて覚えていないほど能に夢中になっていったのです。
その後結婚して上京してからも稽古を続けていましたが、子育ての最中であったにもかかわらずお声を掛けていただき、玄人としての道を開いてくださったのは師匠の梅若六郎先生(現 実先生)で、これまでのお導きに心から感謝しています。ただ、今も私が能の世界に身を置いていられるのは、この20代の貴重な時期、何人もの素晴らしい先生方との出会いがあったからこそ、夢中で稽古にのめり込んでいた時期があったからこそ、なのではないかと思っています。
緑桜会のホームページを立ち上げさせていただき、現在の自分の思いを発信する場をいただくことになりましたが、それと共に私と能の繋がりを振り返り、私を今に導いてくださった先生方との思い出や、能への思いも綴っていきたいと思います。