囃子の稽古に夢中になり始めていた頃、私は自分がお習いしている先生や憧れている先生のこと以外は能のことをほとんど知りませんでした。自分の稽古している梅若が観世流の一派だということもあまりよくわかっていませんでしたし、ましてや他の流儀の先生のことなども全くといっていいほど知らなかったのです。
金春惣右衛門先生の太鼓の会に三度目に出させていただいたとき、喜多流の方が「高砂五段」を舞われるというので、その太鼓を打たせていただくことになりました。
若いに任せてめいっぱい打ったら相当勢いがあったらしく、舞台から降りてすぐに地謡の真ん中に座っていらした白髪の先生が
「いやー、目が覚めたよ!」
と笑いながら褒めて(?)くださいました。優しそうなその先生は、後で聞いたら喜多流の重鎮、友枝喜久夫先生だったのです。両側にいらしたのは若かりし頃の粟谷菊生先生と友枝昭世先生でした。舞う方が友枝喜久夫先生のお弟子さんということでそういうことになったらしいのですが、今考えるとなんと恐れ多い地謡だったことでしょう。能の世界のことをもう少し知っていたら緊張して思うように打てなかったかもしれません。「怖い物知らず」まさにその時の私でした。
当時も福岡というところは「芸どころ」といわれるくらい稽古事は盛んで、地元の先生も多くいらした上に、東京からも関西からも有名な先生が教えにいらしていて、能の会も素人会もたくさん催されていました。けれども素人会などを費用を掛けないように地元の先生方で催したいとなると、囃子方、特に笛方は少なく、ある程度舞を吹けるようになっていた私にまでお声がかかるようになりました。その頃の漫画かテレビ番組に「笛吹童子」というのがあり、それなりの年齢になっていた私でしたが「笛吹童女」などとからかわれながら、いろんな素人会に出演させていただきました。お習いしていた先生の会はもとより、喜多流や宝生流の会にも伺い、他流の先生方にもとても可愛がっていただきました。宝生流の辰巳孝先生の会に伺ったとき、とてもお上手な女性の先生がいらしていて、「女性の笛方として頑張ってね」と励ましていただき、本当に「笛方になろうかな」と、思ったこともありました。
今考えると笛を吹く人が足りなかっただけで、たいしたこともなかったのに、やっぱり当時の私は「怖い物知らず」でした。でも右も左もわからない中で、成り行きのままに精一杯稽古をして、いろんな流儀で舞台を経験させていただいたことは、とてもありがたい体験だったと思いますし、とても楽しい思い出になっています。