太鼓の手ほどきは津田美代子先生にしていただきました。津田先生は柿原崇志先生の奥様のお母様です。当時はまだ素人でいらしたのですが、金春惣右衛門先生の高弟でとてもお上手な方でした。月に一度しか福岡にお稽古にいらっしゃれない金春先生の間稽古のほか、何人も教えていらっしゃいました。明るく優しくとても楽しいお稽古で、すぐに太鼓が好きになりました。
お稽古を初めて半年が経った頃、津田先生から
「金春惣右衛門先生の会があるから出していただきなさい」
と勧めていただき、会の前に指導していただいたのが金春先生にお目にかかった最初です。
会が済んでからもそのままお稽古していただくことになり、能が面白くなりかけていた私は、夢中で月一回のお稽古に通うようになりました。先生のお舞台を拝見した日は、必ず家に帰ってから鏡の前で先生が太鼓を打たれる型の真似をしました。本当に舞台姿が格好良かったのです。体に心地よく響く掛け声、撥音、今も忘れられません。
私の結婚が決まると、お祝いに「獅子」の免状をくださり、東京の先生の会(桐調会)で披かせていただくことになりました。その時に笛のお相手をしてくださったのが、いつも真似をしていたけれどお会いしたことのなかった憧れの田中一次先生だったのです。なんという幸せ者であったことか・・・。
結婚後、上京して生活を始めたのが先生のご自宅に近かったこともあり、太鼓のお稽古を続けることができました。奥様に赤ん坊だった娘をお預けしてお稽古をさせていただいた時期もありました。下の子が7ヶ月でお腹にいたときも
「袴だから目立たないよ」
と言われ舞台に出たのですが、あとで写真を見たら相当大きなお腹をしていました。舞台に出た途端、見所に連れてきてもらっていた2歳の娘が「ママーッ」と叫んだのが懐かしく思い出されます。その時打たせていただいたのが、森茂好先生とのワキ謡一調「土蜘」。これが素人として太鼓を打たせていただいた最後でした。
二人目が生まれてからはさすがにお稽古をお休みしたのですが、その後5年ほどして梅若六郎先生(現 梅若実先生)にご推挙いただき、40歳でシテ方として玄人の道を歩み始めさせていただくことになります。
金春惣右衛門先生は戦時中19歳の時にお父様がお亡くなりになり、金春流太鼓の家元を継承なさいました。19歳で一門を率いることはどんなにか大変な状況だったことでしょう。ましてや戦後は能の存続さえも危ぶまれた時代です。周りの能楽界の先輩方のサポートももちろん大きかったと思いますが、そのご努力たるや書き表すことは難しいと思います。ただ、跡を継がれて10年後の昭和28年、29歳の時に「金春流太鼓全書」を公刊されています。これは本当に素晴らしい本で、太鼓を稽古する方だけで無く、能に関わるすべての方にとって有益な内容が詰まっています。再版も繰り返されて、多分能に関する本では一番のベストセラーではないでしょうか。舞台での圧倒的な芸力もさながら、この本をまとめられた才能は能楽界にどれほど寄与されたか、想像に難くありません。
私は最初にこの全書を買い求めたものの、まだ何もわからないので先生に一から型や打ち方をお習いしました。ある程度打てるようになってからは、ほぼ手組や粒付けを自分で全書を見て予習復習ができるようになりましたが、最初の方に書いてある作法や奏法などのところは余りよく読んでいませんでした。先生から教えていただいたことと、自分で先生の舞台姿を拝見することで学んでいたからです。最近時間ができ最初から読み直してみました。当たり前のことですが、自分が今も気を付けている打ち方とほぼ合致するのです。それだけ丁寧に教えてくださっていたのだと、改めて感激しました。
シテ方の玄人となり自分の能の会の節目節目で先生に太鼓をお願いし、お相手していただいたその時々の舞台は、私のかけがえのない財産になりました。また、素人の時に嘱託という教える資格をいただいていたので、自分のお弟子さんが舞ったり謡ったりなさるときのために、太鼓の初歩の手組をお教えすることを許していただき、ここ10年ほど何人かのお弟子さんに時々太鼓もお教えしています。自分が舞台で太鼓を打つ機会はほとんどありませんが、これからも先生から教えていただいた基本の型や掛け声をなるだけ忠実にお教えすることで、先生を偲んでいきたいと思っています。