能と日本画

私の叔父(父の弟)は美術評論家です。河北倫明といって、25年程前に亡くなりましたが、多くの美術館の館長を務め、晩年には京都造形大学の初代学長でもありました。
それなりに著名人だった叔父は忙しく、滅多に会うことはなかったのですが、30年程前叔父が大病をして入院したと聞いて病院に見舞いに行った折、体調がよかったのか思いがけずたくさん話すことができました。私が能楽師になったこともとても喜んでくれていました。

「能は演劇より絵画に似てる気がする。ストーリーを追うより、観た人の想像力を引き出し惹きつけるところが…」
と私が言うと
「そうだよ。絵は切り取った1場面だけど、いい絵はそこからいくらでも観る人の想像を広げていくんだ」
と言って、いろんな話をしてくれました。
京都造形大学では学生の視野を広げるために、美術や造形の分野だけではなく、能や歌舞伎などの授業を取り入れ、一流の能楽師や役者の方を講師に招いていること。どの芸術分野でも専門のことしか知らない人が増えているので、横の繋がりを広げるために「和と輪」という活動をしようとしていること。この頃絵画の世界だけでなく、芸術全般に玄人(黒)と素人(白)の差がはっきりしなくてどっちつかずの人(灰色)が増えているような気がすること、などなど…。

その頃、玄人になったとはいえ、ほぼ(白)に近い(灰色)の私は「船弁慶」の能を稽古していました。後シテの出の前の謡「一門の月卿雲霞の如く 波に浮みて見えたるぞや」の謡のときはまだ舞台に出る前なので、その場面はあまり気にしていなかったのですが、たまたま美術館で前田青邨の「知盛幻生」を拝見する機会があり、その絵の前に立ってしばらく動けなくなり、この謡を反芻てしまったことがあります。絵の中には知盛だけでなく、たくさんの平家の軍勢が波に浮かび、それも描いてある人数以上に感じられ、まさに「雲霞の如く」だったのです。能の舞台では義経に襲いかかるのは知盛だけですがその後ろにはたくさんの平家の武士の怨霊がいる。私は自分一人で舞台へ出て行っていました。謡の中ではわかっていましたが、自分が稽古している中にその想像がまるで足りなかったことがよくわかりました。
そういうこともあって、私もイメージを広げるためにもっと絵を観ようと思っていたところでもあったので、よけいに叔父との話が弾んだのです。

叔父もとても喜んでくれたようで、その後私に役に立ちそうな図録や、本をたくさん送ってくれました。

もともと前田青邨、小林古径、安田靫彦、上村松園などなど、能と繋がりのある作品が多い画家の展覧会を観ることが多かったのですが、ある時「速水御舟生誕100年の特別展」があり、図録などで御舟の絵の独特の雰囲気に惹かれていた私は、初めて能から離れて観に行きました。
一生を駆け足で追うような絵の数々で、圧倒され衝撃を受けました。40歳という若さで亡くなっているにも関わらず、短い周期ごとにまるで画風が違うのです。とても細密な絵があったり、朦朧としたものがあったり、琳派のようなきれいな絵があったり、時には何かを打破ろうとしているような怖ささえ感じる絵もありました。一つ一つの絵の前でじっと向き合わずにはいられない、そんな感じでした。
「この人はいっときも同じところに留まらず絵を書いている」
と思い、展覧会の図録も買い求め、帰ってからも何度も何度も見返しました。
炎に蛾が舞う「炎舞」や美しい屏風絵「名樹散椿」などの重要文化財に指定されている絵ももちろん素晴らしいのですが、私は軸や小品の中の花の絵もとても好きでした。好きすぎて、第一回の能の会を催したときは、会の名前の「桜」にちなみ、会当日のパンフレットの表紙に図録から「春の宵」という桜の絵を使わせていただいたほどです。もちろんその絵を所蔵している山種美術館のご了解を得てから…。
前にHPにあげた「梅に思う」の回で載せている「白梅」「紅梅」もその図録からのものです。どういうわけか速水御舟の絵は、私の思う「桜」や「梅」のイメージにピッタリ来るのです。因みに現在のスマホの待受も図録からの花の絵だという…。
このところ美術館に行くことも少なくなりましたが、本当に好きだったなと今更のように思い返しました。

他にもまだまだ影響を受けたり考えさせられたりした絵があるので、これからも時々書いていければと思っています。
晩年に少ししか話せなかった叔父ですが、能楽師としての私の視野を広げてくれたことを感謝しつつ…。

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