随分前になりますが、「日本画近代化の旗手たち」という展覧会を観に行ったときのことです。
梶田半古の「菊慈童之図」という絵がありました。岩に寄りかかるようにして遠くをボーッと見ている慈童はなんだか物悲しげに見えました。
「菊慈童」は能にもあり、歳のお祝いの時などに演能があったり、謡われたりする、よく知られた曲です。慈童が菊の霊水を飲んで少年のまま700歳も生きた、ということから長寿を祝うときに謡われるようになったのだとは思いますが、私はひとりで700年も生きて幸せなのかな?などと思っていました。ですから半古の絵を観たとき妙に納得し「私のイメージする菊慈童はこれだ!」と思ったのです。
観世流の「菊慈童」は、中国酈縣山に霊水が湧き出るというので、勅使が山に様子を見に行って不思議な慈童に出会う、というところから始まります。慈童は周の穆王に仕えていたと話すのですが、それは700年も昔のこと。不審に思う勅使に慈童は帝から賜ったという二句の偈の書かれた枕を見せます。その妙文を書いた菊の葉の雫を飲んで不老不死となったのだと勅使に告げ、枕の妙文の功徳を称え舞を舞い、御代を寿ぎ自分の長寿を君に捧げ、また菊をかき分けて仙家へと帰っていきます。長寿を祝う曲になったのも頷けます。
実はその前にも物語があり、能にも昔は前場があったということを知ったのは半古の「菊慈童」の絵を観てから暫く経ってからのことでした。平成16年に師匠が前場を復曲なさったのです。
周の時代、穆王に寵愛されていた慈童は、帝の枕を跨いだという罪に問われ、酈縣山に捨てられることになります。慈童を哀れんだ穆王は枕に法華経の二句の偈を書いて渡します。その枕を抱いて連れて行かれた慈童は、酈縣山に一人とり残される、というところまでが前場です。それから700年……そしていつもの能に続くのです(少し插入部分はありますが)。
私が梶田半古の「菊慈童」を観たときの感覚は、その物語そのままのイメージでした。「慈童は何を思っているのか…」という答えのない絵に惹かれたのだと思います。
素晴らしい能とは、演者が思いを押し付けるのではなく、演者の思いとは別に観る人それぞれが自分の想像を広げられる懐の深いものだと思っています。まさに半古の「菊慈童之図」にはそれを感じました。
「菊慈童」は多くの日本画家が題材にして描いていますが、私は梶田半古の「菊慈童之図」の空気感が一番好きです。
この絵に巡り合うまで、あまり梶田半古という名前を聞いたことがなかったので、いろいろ調べるうちに、平成6年にそごう美術館で「梶田半古の世界展」という展覧会があったことを知り、美術館に問い合わせてカタログを購入することができました。年表や生い立ちを読んでいたところ、驚いたことに私の好きな前田青邨や小林古径、奥村土牛は半古の弟子であったことがわかりました。大成した弟子たちはまるで違う個性を持ち、世の多くの人が知る大家になっていることから、半古は師としても素晴らしかったのでしょう。本人は47歳という若さで亡くなっているので、現代では名前があまり有名ではないのかもしれません。もっと知られてもいい画家だと思います。
「菊慈童」から思いがけず私の好きな絵のルーツがわかった気がしました。