私はよく能と日本画の繋がりのことをブログに取り上げています。
ある展覧会で「菊慈童」の絵に惹かれたものの、その作者である梶田半古のことをよく知らなかったことから、いろいろ調べていたときに、奥村土牛の弟子であった方の文章に出会いました。
その中で土牛が小林古径や前田青邨などと共に梶田半古の画塾の門下生であったことがわかりました。そして梶田半古の画に対する思いを門弟に伝えるべく口述したものを筆記した「画事入門」という本があることを知りました。その一部が記載されていたのですが、とても興味深く、私はまたもや能の修業と比較してしまいました。
奥村土牛もこの「画事入門」は優れた入門書だと言っていたとのこと。人物画から花鳥画、風景画、全てにおけるその写生法、運筆法、作図法、着色法、配色法、遠近法などの技術的なことはもちろん、使用する道具や材料に至るまで、絵画の全てに渡り述べられているのだそうです。
その上で
「形象の内容には筆者の思想あり。これなくしては絵にあらざるなり」
「斯道を志すものは心的修養を怠るべからざるなり」
「絵は決して筆をもってなるものにあらず、墨をもって作らるるものにあらず」それを言い換え
「画は手をもって描かるるにあらずして、筆者の心、精神これを作るものなり」
「古代の高尚な絵画、文章、詩歌の如きを学びて趣味の向上を図るは極めて肝要なり」
と書かれているということです。これは芸術全てに言えることですし、もちろん能もそのとおりだと思いました。
「技術は大事だけれど、その内容に演者の思いがなければ能ではない」
そのためには稽古を重ねるとともに
「良い手本を真似てしっかり学び、素晴らしい絵や詩歌や文章などに触れ自分そのものを高めることが肝要」
ということになるのでしょうか…。
随分前に、師匠が話されたことを思い出しました。
「みんなが僕の謡や型の真似をしてくれるのはいいんだけれど、結果ばかりを真似されてもね…。どうしてその型になったのか、謡い方になったのか、その過程を真似してほしいんだけれど…」
能は絵と違い、作品として形に残りません。出来上がったものを見ながら写すということはできないのです。昔と違って映像は残り、後で見て参考にできるかもしれませんが、空気感がないのでどうしても表面的なものしか伝わりません。本当に目に映ったものをあらためて、時間をかけて自分に投影することが必要だと思います。そのためには見る目も養っておかなくてはならないし、また基本の型ができていなければなりません。ですから日頃の稽古で基本の型を繰り返し体に覚えさせる努力、またそれができる体幹も鍛えていくことがとても大切なのだと思います。その上で繰り返し真似をする、感性を磨く、それが目に見えないもの…その型や謡い方になった過程…にも繋がってくる、そういう稽古をすることが修業なのだな、と思い至りました。
玄人としての修業の為には、舞台の稽古の他に、自分自身の心的修養を怠らないことなのだと、画事入門から教えていただいた気がします。