習うより慣れよ

昔から修業を重ねる時や仕事を覚え始めた時の教えに「習うより慣れよ」ということをよく言います。これは何かを身に付けたいことが見つかったとき「人や本に理屈で教えてもらうより、自分で体験を重ねることのほうが身に付く」ということを言っているのだと思います。

謡や舞などの芸事も教えていただく以上に、師匠や先輩の舞台を拝見しながら自分の芸を高めていく、いわゆる「芸を盗む」ことが大事だと言われます。ですから玄人になると師匠に直接稽古をしていただく機会は少ないわけですが、現代は録音や録画ができる為、生で見て聞いて盗むという感覚が薄れているような気がします。

素人の方の場合は楽しみに趣味として稽古をなさるのですから、それほど厳しいことは求められず、一挙手一投足を教えていただいたり、オウム返しのように教えていただいたりすることもあります。また、録音や録画もよく利用されます。
それでも自然に謡ったり舞ったりをしっかり身に付けたいと思ったら、やはり自分で感じたり工夫したりということが必要になってくるのではないかとも思います。

教える、習うということには限界があります。言葉では説明できないこともあるし、頭でわかったとしても体が反応しなければできません。
「腹話術と息」でいっこく堂さんの話を取り上げましたが、彼はインタビューの中で、
「請われてYou Tubeなどで教えることはあっても弟子は取らない、芸を継承することは考えてない」
と言っていました。彼の芸は、普通には考えられないほど、試行錯誤しつつ訓練を重ねた芸であることは間違いありません。弟子に教えられるものではない、それがよく分かっているからそう言われるのだと思います。腹話術は目で見て盗むというのにはとても難しい芸なのだということでしょう。自分で気づき人一倍努力訓練して作り上げていかなくてはいけない芸なのです。
「そうやってまた新しい腹話術ができていけばいい」
とも語っていました。

腹話術ほど見えなくはありませんが、能の舞や謡も本質は同じです。教えてもらい習うことで、ある程度技術は体得できるかもしれません。でもその芸を深めていくためには、自分で課題を見つけ、自分で解決しながら努力訓練して初めて身に付いていくのだと思います。そうするためには、普段から日常の何事に対しても、アンテナを立てていて見たり聞いたりすることが大切だと思っています。それを稽古に活かしていく、玄人として芸を磨くとはそういうことなのだと思うのです。
新聞やテレビなどで見聞きする、分野が違っても一流になっている方たちのお話などは「気付きの宝庫」だと思っています。

趣味として楽しむための稽古は、玄人の稽古とはまた違います。たいていの方がある程度年齢を重ねてからの稽古になると思いますし、生活の中心は他にお有りですから、稽古のことばかりを考えているわけにはいきませんし、趣味に割く時間も限られます。その場合は、当然教えてもらったことを繰り返し稽古をする、という形が当たり前です。私もお弟子さんには言葉を尽くし、一緒に謡い舞い、一生懸命お教えしています。それでも、その中でお弟子さんたちが自分で疑問を持ったり考えたり、試してみたりして「自分で気付く」ということはとても大事です。教えられたことは忘れても、自分で気付いて身につけたことは忘れないからです。いつか自分で気付いていただける時のためにお教えすると言っても過言ではないと思います。
私も気付きがあると、まず自分で試したあとにお弟子さん方にお教えするのですが、これを何人にもする事によって反復練習になり、自分の身についていくような気がしています。私がこの歳になってもまだ前に進んでいるような気がするのは、習ってくださるお弟子さんのおかげ、と言えるかもしれません。
「上手になりたい」という気持ちには、玄人も素人もありません。少しでも上手になりたいと思ったら、「教えてもらったことを稽古する中で、自分で何かを見つける、何かに気付く」というのが一番だと思っています。

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