口一文字 声は腹から

昭和53年に発行された別冊太陽で能が特集されました。私が30歳の頃です。本当に能が凝縮されたような分厚い雑誌でした。わからないことが多い中にも興味深く、何度も読み返しました。
最近、久しぶりに引っ張り出して目を通していたら、当時はまるで目を留めていなかった記事に掴まりました。先々代の金春流の家元、金春信高氏のエッセイです。題は
「口一文字、声は腹から」
このテーマ、今の私だからわかる内容でした。

この頃お稽古のときに何人かに対して
「歯を噛み締めたまま謡ってみて」
ということをしてもらっています。これは日本語は息を体にためたまま文字(言葉)を体の中に放つことができるということをわかってもらうための稽古です。
口の開け締めが大きいために、息が声を外に押し出し、体に息が溜まらず、お腹に力が入らないという方が多く、その原因となっている口の開け過ぎを直すための訓練方法として取り入れているのです。
また腹話術の話もよくブログの中で書いていますが、本来の日本語の発音は口を縦に開けるものではないということをこのところずっと訴え続けています。歯を噛み締めたまま早口言葉をいうと、思いもかけずスラスラ言えるのでびっくりする人もいます。子音が口のどの部分で作られているかもよくわかります。
「口一文字、声は腹から」の文章内容はその理論を裏付けてくれるものだったのです。
抜粋してみます。

能の謡を謡うには「口一文字 声は腹から」ということが古くから伝承されている。
故金春八絛(金春流78世家元)は面白いことを言っていた
「私の謡の声は一間ばかり前方のところで響いているのだが、その声には尾があってね。その尾は私の下腹で根を張っているような感じだよ」と。………それにしても「口一文字 声は腹から」という言葉は一言にして見事に、発声の彼岸を直指している。口一文字とは………口を上下に開かぬことの規制である。日本語を明瞭に発音するには、これは何よりも大切な心得であった。………声を腹から出すのは容易なことではない。声帯が喉についている以上、声が腹から出るわけはなかった。これはあくまでも感覚の上のことである。初心者は自分の声がどこから出ているかわからない。だが少し専門的に修練を重ねると、自分の声がどこで響いているかは感覚で捉えることができる。それを私共能楽師は、響座(きょうざ)と呼んでいる。いろいろな響座を響かせることによって、いろいろな声を出すことができる。だが、その響座を腹に設定することは、大変な難事業であって、それには長い年月にわたって激しい声の鍛錬を重ねる以外に、方法がないのである。響座は声が鍛えられるに従って下に下がってゆき、ついにはそれが下腹にまで達する。………謡の研究はひとえに、この鍛錬法にかかっているといっても過言ではない。腹から出る声が、どれほど融通自在ですばらしいものであるか、単調な能の謡が観客に大きな感動をあたえるのも、すべてはこの声の成果なのである。………ともあれ、腹から声を出すということは……わが国独特のものであるらしい。だが、いつの日にか、必ず西欧のひとたちも、これを優れた発声法の一つとして取り入れるようになるだろうことを、私は信じて疑わない。

と結んでいます。

この文章は私の考えていた発声法に自信を持たせてくれました。実際は完全に口を一文字にして謡うわけではありませんが、そうすることによって、息を体に籠め体の中での言葉の響きを感じ取ることができるのです。

玄人の稽古ではないのでお弟子さんの謡の稽古でそこまで厳しくはできませんが、謡らしい謡を謡うために体のいろんな場所で声を響かす体験や、歯を噛み締めたまま言葉を話す体験など、その理論を少しでも身につけていただくためにしているお稽古は間違っていなかった、と思えました。声の響いている場所を「響座」ということは今回初めて知りましたが…。
ただ最近、このような意識で発声している人は、能楽師の中でも少なくなってきているように思います。「いい声」の人はたくさんいても「伝わる声」を持つ人は減ってきているのではないでしょうか。金春信高氏が当時予想していらしたように、もしかしてこの発声法が将来西欧で認められることがあったとしても、果たして日本で残っていけるのかどうか…。
私が「声の道場」を始めたきっかけの「日本の声が危ない」という危惧が私の中で再燃してきました。

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