私たち能楽師には、「紐を結ぶ」という仕事が多くあります。
昔は日常の中に当たり前にあった「紐を結ぶ」という仕草が、現代ではとても少なくなっています。着物を着なくなった、荷造りも紐で縛ることはあまりしない、靴の紐もマジックテープやファスナーがあるので紐をしっかり結ぶことが少ない、そんな世の中になってきています。
私は子供の頃から自然に紐を結ぶことが身につき、教えられなくても自然に緩まないような結び方ができるようになっていた気がします。でも、もし着物を着る機会が少なかったら、能楽師になっていなかったら、紐をシッカリ結ぶことはできなくなっていたかもしれません。
能楽師の大事な仕事として装束付があります。能は演劇や歌舞伎と違って、着付け専門の方はいません。修業の中でそれぞれの能楽師が技術を身に着け、後見の役のときにはシテやツレに、装束を着けてあげなければなりません。
装束付は、前と後ろの二人で着けますが、その他タイミングよくいるものをその二人に渡す人、大事な部分がずれないように押さえる人など、周りに補助を上手にする人がいることで、早く美しく装束が着くのです。中入りなどで時間がないときなどは特にスムーズにしなければいけません。
装束付ができるようになるためには、まずは周りでよく見て付け方を覚え、必要な時に必要なものを渡す、言われなくても大事なところで手を出す、ということが必要になります。自信を持って手を出すためには流れをしっかり覚える必要があります。
それを続けているうちに、後ろの仕事をさせてもらえるようになります。頭で覚えてきた仕事を、体に覚えさせながら、前の人の動きに連動して動けるようにならなければいけません。その時に「紐を結ぶ」という大事な仕事が出てきます。
それまで スムーズに行っていたのが、紐を上手く締められないために滞ってしまう、着崩れてくるということも起こるのです。締め方も大事ですが結ぶ時に緩まないことも大事。特に最初の胴着(綿入れの下着)の上に着付けを着せて、胴帯(綿の入った太い帯)を締める時の締め方は慣れるまで大変です。
前の人から渡された胴帯を交差させ一度目を締める時、「お締めします」とか「お締まり」とシテに声をかけ、グーッと締めていくのですがシテが「はい」と言われたところで止め、それから緩まないように蝶結びにします。
私が最初に経験させていただいた時、力任せにギューッと締めたら
「荷物を縛ってるんじゃないぞ!」
と叱られました。
「シテの一番気持ちのいいところで止めてあげるんだから、今のだとそれがどこか分からないだろう?ジワーッと締めていき、合図の声を聞いて一番いいところできちっと止め、緩まないように結べるように」
前で装束付をさせていただくことはほとんどありませんが、数える程の経験でも手順や技法と同じくらいに紐をきちんと結ぶことは重要だと思いました。
一番最初に締める胴帯の締め方、後ろをさせていただいたら、それだけは身に付けなければ、まずは後ろとしての役には立ちません。
綿入れの胴着と着付けを着けたところで、綿の入った胴帯で締めるのです。簡単には締まりません。
「真綿で締めるように」などと言うと怖い場面を想像してしまうようですが、ジワーッと締めることによって一番いい締めどころが分かる、締めている方もお腹に力が入ってくる、面白いなと思いました。
それ以降、装束付以外でも、着物や袴の着付けの時に、私がずっと意識してきたお腹にくるその締め方が、究極の締め方だと気付いたのはつい最近、「息と動きの連動」について考えるようになってからでした。
私はお弟子さんたちに着付も教えているのですが、紐を締めるのがうまくいかない人が多く、また締めても結ぶと緩むとか、そこでストップしてしまうことが多いのです。手順を教えてもそれだけではうまくいかない。悩みの種でした。
つい最近、装束付の稽古をしている人たちを後ろから見ていて、ハッと気づきました。後ろで胴帯を締めている人を見ていたら、手にしか力が入ってないのです。手だけで締めていて力が腰から繋がっていないのです。だから結ぶときには引っ張っている手の反動で手が緩んでしまい、着せられている人の一番いいところで結べない。「あ、緩んだ」と何回も言われていました。
このところずっと考えていたせいか、そのとき「息と動きの連動」に気づきました。その時の後ろの人は完全に手だけで締めていて締める時にお腹に力がいるような息遣いができていなかったのです。息を詰めることによって力が抜けない、という息遣いが必要なのです。
私はその頃、謡や舞で自然にその息遣いを意識していたので、思ったより早くできるようになったのだと思います。なかなか締めるのがうまくいかないという人は、「締める」という動作の時に顎を引いて「ン~~ッ」という息遣いをしたらどうだろう、と思いつきました。合図があったところで息を止め、結び目が緩まないように手の小指側で押さえ、手早く結ぶ、ということです。
もちろん結ぶ時の手や指の動きの訓練も必要ですが、「締める」ことに関してはその息遣いを使えば間違いなく「ジワーッ」と締められる。言い換えれば「ン〜〜ッ」の息で締めればできるのは間違いないと思います。
能エクササイズでストレッチやトレーニングの時に使う「息と動きの連動」、これを着付の方にも活用しようと思っています。
「能は何をするにも息遣いと繋がってくる」
そう考えると舞う謡うだけでなくどんな仕事でも面白くなってきます。