ずいぶん前、私がまだ小学生の頃のことです。
とてもお元気で
「医者にはかかったことがない」
と言われていた方が急に亡くなられたとき、両親の話していたことがが耳に残りました。
あまりにお元気で体に自信があって、知らず知らずに無理をしてしまわれたのかもしれない。「無病息災」というけれど「一病息災」の方がいいのかもしれないね…。
息災とは平穏無事というような意味だそうです。
何も気になるところがなく、元気に任せて無理をしてしまうより、どこか一つ悪いところがありながら気を付けて生活している方が、かえって長生きできる、息災でいられる、ということなのだと後でわかりました。
それとは少し違うかもしれませんが、同じように思うことがありました。今年の初め、手首を痛めて何箇所かの治療院に通っていたとき、施術してくださる先生方に、必ずお願いしていたことがありました。
「痛くても使える手にしたい」
ということです。
手術や注射や薬などで、痛みが取れたとしても、力が入らずやりたいことができないのでは何にもなりません。少しくらい痛くても我慢すれば使える方が絶対にいい、と思ったからです。
半年以上かかりましたが、「痛みがあっても使える手」が戻ってきました。
少し無理をしそうな日はテーピングをしたり、手先を使う時に使う腕の筋肉を日々鍛えたり、自分でケアしながら、ほぼ前のように使えるようになったのです。
そうなると
「もう少し痛みが取れたら」
と思ってしまうのですが、その時に「無病息災」より「一病息災」を思い出したのでした。
このちょっとした痛みが、自然に手の使い方に気をつけさせてくれているのだと気がついたのです。
例えば料理をするとき、やっと鍋やフライパンを持てるようになったのですが、ちょっとした痛みがあると、自然に持ち方を変えて痛まないようにできるようになりました。
また、着付けで紐を締めたりする時も、痛みが出ないような、息と連動する締め方を体得したと思います。
痛みがあることによって、本来の体の動きがわかってきたのかもしれません。
前に「歳をとらないとわからないこと」「危機を節目に」というブログを書いたことがありましたが、度々危機を乗り越えて得たことも、喉元通るとつい意識が外れることがあります。今回も完全に痛みが取れてしまっていたら、またその時の勢いで無理をするかもしれません。
「痛みがあることで、ずっと手の使い方を意識できる」「自己ケアを続けることができる」
そう思って痛みと付き合っていこうと思います。