私が初めて能の世界に足を踏み入れることになるきっかけを作ってくださったのは、柿原繁蔵先生です。繁蔵先生は柿原崇志先生のお父様で、柿原弘和先生・光博先生、白坂信行先生・保行先生のお祖父様にあたります。
母が自宅のお稽古場で小鼓を繁蔵先生にお習いしていたことで、最初は親孝行のつもりで小鼓を始めましたが、「ミイラ取りがミイラになる」とはこのことか、というほどの早さで私の方が稽古に夢中になってしまいました。家がお稽古場ですから一日中どなたかのお稽古があっています。いつでも見学し勉強させていただけるという、最高の環境の中にいたわけです。そしてまた、先生はやる気があればあるだけ惜しみなく教えてくださいました。笛の稽古を始めて舞が吹けるようになると、お弟子さんが鼓を打たれるときに吹かせてくださいました。
先生の会(高安会)では小鼓を打ち、笛を吹き、舞囃子を舞うという今では信じられないような出演の仕方をさせていただいていました。母が小鼓、私が笛、そして父が舞うというようなこともさせていただき、先生のおかげで飛切りの親孝行ができたと思っています。
先生は大鼓方でいらしたので、小鼓はある程度までしか教えていただけず、途中からは大鼓を教えていただくことになりました。大鼓は四拍子の中で稽古を始めるのが一番遅かったので、まだしっかりと身につかないまま結婚して上京することになりましたが、その後は柿原崇志先生に教えていただくことになります。
繁蔵先生は若い頃に素人でお稽古を重ねられ、40歳の時にそれまでのお仕事をやめられ、背水の陣で東京の高安流宗家預かりでいらした安福春雄先生のところに書生として住み込まれ、修業なさって玄人になられたと伺っています。私に玄人になりたいという気持ちがあると思われたのか、
「庸子ちゃん、玄人やったらそげな言い方すると叱らるるばい」
などと生意気になりかけていた私を諫めてくださり、昔の修業時代のこともたくさん話してくださいました。
「教えてもらうということは無かもんね。自分で観たり聴いたりして勉強して、いざ先生が打ってみなさいと言われたときに出来んときはもう暫くはチャンスはなかとばい」
私も先生と同じように40歳でシテ方として玄人の道に入ることになり、昔先生がおっしゃってくださったことが身にしみてよくわかりました。お役が決まるとすぐに覚えて稽古に入るという習慣が付いたのもそのおかげだと思います。教えていただく稽古から自分で作り上げる稽古へ、そして最後に師匠に見ていただきお直しをいただく。そういう玄人の舞台に対するあり方に自然に入っていけたのも、繁蔵先生にいろいろお話を伺っていたからです。本当に有り難かったと心から感謝しています。
48歳の時に自分の能の会を立ち上げさせていただいたのですが、
「初めの会はあなたを育ててくださった先生方のいらっしゃる福岡でやったら?」
という師匠の有り難いお勧めで、第一回「緑桜会能の会」は福岡の大濠能楽堂で催させていただくことになりました。そして最初の手ほどきをしていただいた先生方にお相手をしていただいたのです。玄人になって柿原繁蔵先生に能のお相手をしていただいたのはその時の1回だけですが、先生はとても喜んでくださいました。もしかして少しだけでも恩返しができたでしょうか。それなら嬉しいのですが・・・。
柿原家では先生のひ孫に当たられる孝則さんも独立され、私は4代にわたってお世話になっています。今も繁蔵先生からいただいたご縁が繋がっていることがとても有り難く、未だに先生に見守っていただいているような気がしています。