笛の息と謡の息

「謡は腹の力で体に溜めた息を遣って謡うものだ」と頭でわかってきたとき、いい稽古方法を思いつきました。

能の笛が大好きで田中一次先生に憧れ、必死で真似していた頃です。笛も体に溜めた息を歌口に当てて音を出し、その当て方によって音質が変わります。音階の動きは指遣いやテクニックによりますが、息遣いが一番重要です。

謡は息が声帯に当たることで音となりますが、それだけでは音としての声になるだけで、やはり体に溜めた息を遣うことができないと謡になりません。
そこで、笛の唱歌(笛の音を口で表すもの)を稽古するときに軽く唱わず、謡の稽古をするように構えをしっかりしてお腹からの声で唱うようにしました。そうすると、表面上の音階では無く本当に笛を吹いている感じになるのです。これはすごい発見でした。
「謡を謡うのも笛を吹くのも一緒だ、音の作られる場所(息の当たる場所)が違うだけなんだ」
「謡をしっかり謡うことが笛の稽古になり、笛の息遣いが謡の息を育ててくれる」
その時の私には一石二鳥!この発見が私の謡を稽古する原動力になったのは間違いありません。

最近、私がお弟子さんの舞囃子の稽古の時に唱歌を唱っているのを聞かれたある笛方のかたから
「山村さんの唱歌はシテ方の唱歌ではなく笛方の唱歌ですね」
と言われたことがあります。もしかしたらこれまで唱歌を唱うときに、いつも笛を吹く息を遣って唱っていたことによるのかもしれません。

上京して田中先生のところに伺わせていただき、最初のお稽古で一番驚いたのは、なんといっても先生の謡の素晴らしさでした。ずっと梅若の座付きでいらしたことは伺っていましたが、本当に心地よい響きのある謡で、それは唱歌になっても変わらずそのままでした。「オヒャーでなくフォヒャー」「ヒウーヤーでなくヒィウーヤー」文字では表せませんが、息の動きで音が作られている、そんな感じでした。ただ長く引くだけの時も拍に当たる息が感じられるのです。

謡から唱歌になっても息遣いが変わらないので、曲の思いが唱歌にそのまま感じられる。きっと唱歌が笛になっても同じで、謡を受けて吹き込まれる息に思いが乗り、聴く人を魅了するのだと納得しました。

笛だけでなく、鼓や太鼓も打つこと以上に掛け声が難しいのですが「掛け声もやはり息遣いが重要」なのだと思います。笛のアシライと同様、謡と思いが同化するような掛け声が能をより引き立てる・・・。「謡をしっかり謡えること」それはどの役であっても総合芸術である能の基本なのかもしれません。

雛飾りに五人囃子があります。これは能の囃子を打つ人形で、並べるときに必ず能の舞台と同じように、左から太鼓、大鼓、小鼓、笛、扇を持つ人と並べます。能の囃子四役のことを四拍子(しびょうし)と言いますが、昔から囃子方は四人なのに、どうして五人囃子というのだろうと思っていました。扇を持っている人は謡を謡っているのはわかりますが、形を整えるための数合わせなのかなと・・・。今はよくわかります。人間の体も楽器、だから囃子方でもあるのです。五人が同じような息遣いで囃子を奏で曲を作り、シテを引き立てているのです。扇を持っている人は地謡の代表ということなのでしょう。もちろん地謡の息には一番大切な言葉が聴く人に伝わるように乗らなければいけませんが・・・。

田中先生が
「アシライ笛は謡の邪魔になるなら吹かない方がいい」
とよくおっしゃっていましたが、今考えると暗に笛方の息遣いを教えてくださっていたのかもしれないと思うようになりました。大事な場面で謡に添わない音が流れても興をそがれるだけです。そうならないように「息を遣いなさい」「思いを込めなさい」ということだったのでしょう。

先生のアシライが謡と相まって舞台を彩ったのは、その曲を創り上げる謡と笛の息遣いが同化して双方の思いが重なり、より深い感動が生み出されたということだったのではないかと思うのです。

結局私はシテ方として玄人となり、舞は吹けても笛方として能を創り上げるという修業はしないままでしたが、謡を謡う上での大事なことを笛を通じて教えていただいたと思っています。

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