「歳をとらないとわからないこと」の回で、舞において「動けるということが邪魔をしていた」と書いたのですが、謡についても同じ事が言えると思います。「いい声が邪魔をする」ということもあるようです。
「いい声だ」と褒められ期待されている人の能を拝見したときに「声はとてもいいのに、なんだか訴えかけてこない」と感じることがあります。いい声の人は美しく謡えることで安心して、発声についてあまり突き詰めて考える必要を感じないのかも知れません。
一方、もともと楽には声が出ない人の中には、大きい声を出そうとするとかすれたり咳が出たり、無理をするとすぐに喉を痛めたり、発声で悩む人も多いと思います。そういう人は若い頃は能楽師としての評判は良くないかもしれません。それでも自分の声を何とかしようと、どうにかして自分の声を見つけよう表現しようと、発声を突き詰めた結果、腹の力が付き、息の遣い方を会得するということもあると思います。息での表現力が豊かで、後々いい役者だと認められた人にはそういう方が多いような気がします。
あるとき師匠に伺ったことがあります。
「とても声はいいのにドラマが見えないという方がありますが・・・」
すると師匠は
「多分その人は声が良すぎるんだよ。声がいいとそれに頼って歌い上げてしまうからね。能は『語り』だから歌ったら言葉が伝わらないんだ。節が美しい箇所でも、歌わず言葉を語らないと」
「なるほど!」と思いました。だから能では「歌う」と言わず「謡う」と言偏の字をつかうのだなと・・・。声がいい人ほど歌いたくなる、そこに落とし穴があるのかもしれません。
世阿弥の「風曲集」の中に
『我が声の正体を分別せずして唯声を彩り曲をなさんは音曲正路にはあるまじきなり』
という文があります。〈自分の声のことをよくわからずに、ただ綺麗な声で曲を歌うのは、本来の音曲の行き方ではない〉ということだと解釈しました。本文にはもっと難しい技術的なことが多く書かれているので、単に「謡に心を込めなさい」という精神的なことではなく、まずは「心を表現できる本当の自分の声を探求しなさい」ということではないのかと思っています。よく「心技体」といいますが、私は修業は「体技心」なのかな、と思います。心は一番大切です。けれどもどんなに「深い心」を持っていたとしても、体(構えや呼吸)ができていなければ技術(運びや息遣い)は上達しないし、それが身に付いていなければ観客に心(演者の思い)は伝わらないのです。
もともと声のいい人がこのことに気づけば「鬼に金棒」ですよね。もちろんそういう方もあります。美声で若い頃から嘱望されていた観世寿夫先生は
「良い声すなわち能の声ではない」
と思い至られ、悪声で有名にもかかわらず名人の誉れ高かった宝生流の野口兼資先生に教えを請われたそうです。いい声を持っているのに、それに頼らず息遣いを身につけるのは、声が出ない人以上に大変です。自ら苦行に向かい、ものすごい努力をなさったはずです。そして圧倒的な表現力を身につけられ、数々の名演を残されています。現在能楽界で最高峰にいらっしゃる先生方の多くが、流儀を超えて観世寿夫先生の影響を受けていらっしゃるとも伺っています。
能楽師として生きるとき、生まれ持ったその人の声(体)は壁に突き当たるたびの探求と努力で、その人にしかない魅力ある個性となっていきます。世阿弥のいう「時分の花」が真の「自分の花」になっていくのです。これは能だけに限ることではないと思います。忙しい現代、周りに流されず、今に安心せず、立ち止まって、たまには自分で壁を作ることも必要かもしれません。
歳を重ねた今、私には楽に出る声はありません。かえっていいチャンスです。「いい声」を出そうと思わず、息遣いの努力を続けたいと思います。「いい声を出したい」という落とし穴に陥らず、歳をとった今の「自分の声」を求めていきたいものです。