松浦佐用姫

「見る」と「見える」

銀行に行って、ATMが混んで並んでいるとき、その台数が多く横に長いと次に空いたところに気づかず、係の人から教えてもらうことがあります。それで特に困るわけではないのですが、この頃私はどうしたら自分ですぐに空いた場所がわかるか、その方法を見つけました。

どの場所か一点を見ていたり、あっちこっちを見たりせずに、真ん中あたりに向いて、目を動かさないでボーッと焦点を合わせずにいると、全体が見え人が台から離れる気配がすぐにわかるのです。
「どこかを見ているから他のところが見えないのかもしれない」と、興味本位で仕舞を舞うときの目を使ってみたのでした。

舞を舞う時は目線がとても大事です。構えているときは目線は真っ直ぐにしていますが、一点を見つめるのではなく、焦点を合わせず遠くをボーッと見るともなく見ています。半眼の仏様の目のような…。能面やお雛様の目と言えばわかりやすいでしょうか。

このような状態は何かを見るのではなく、全体が見えるという感じです。「見る」ことをしないと周りが「見える」ということなのです。そうしていれば見ることにとらわれず、目が体の一部として動きについてくるので、表情が出たり体の線が崩れたりせずに舞が自然体で舞え、美しく見えます。
また演者が思いを持って面(顔)の角度を変え何かを見る型をした時にも、お客様に何もない所に何かがあるように感じられるのです。
玄人としての初シテ」で書いていますが、私が能楽師になって初めて師匠に能の稽古をつけていただいたとき、桜を見る型で
「自分の目で見ない、面の目で見て。胸で見る感じ!」
と注意をいただいたのを思い出して作った五行歌があります。

面の目と 演者の目 一つになって 心の眼 無から有が生まれる

能面の目が物を「見ない目」であるからこそ、なにもない舞台に演者の思いと観客の想像力によって、いろんなものが見えてくるのだと思います。巻頭の写真「松浦佐用姫」は2009年に梅流会で舞ったときのものです。銀色の扇は恋人の形見の鏡を表し、このあと佐用姫は海に身を投げるのですが、お客様にその想いは届いたでしょうか…。

 面をつけない仕舞では顔を面にすることが大事になる、だからこそ「見ない目線」が必要なのです。

そんなことを銀行で並んでいるときに思いついて、「見なければ見える」を試してみたのでした。

また同じようなことが「聞く」と「聞こえる」にも言えます。例えば囃子会でのこと…。

私は能の入口は小鼓の稽古でしたが、それから笛、太鼓、大鼓と四拍子を稽古するようになり、囃子会に出演する機会も多くなりました。どの楽器を演奏していても同じことが言えるのですが、例えば笛を始めて最初の頃はまだ他の楽器のことがまだ身についていなくて、演奏中どこかでひとつの楽器を聞こうとすると他の楽器が聞こえなくなる、ということがよくありました。
それぞれの稽古が進み、笛が自然に吹けるようになってくると、聞こうとしなくてもそれぞれの音が聞こえてきて、何か変わった事があっても慌てず反応できた、ということも何度か経験しました。「聞く」ことをしなければ「聞こえる」のだ、ということを身を以て感じたのです。私などでは滅多に経験できることではないのですが…。

聖徳太子は10人もの人がが一緒に話すのを聞き分けられた、という逸話を聞いたことがあります。もしそんなことが本当にあったのなら、聖徳太子は何にもとらわれず「聞く」ことをなさらなかったから「聞こえてきた」のかもしれません。

面の目と 演者の目 一つになって 心の眼 無から有が生まれる
山村庸子 五行歌集「能のひとひら」より

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