舞扇

扇のひと突き

私が福岡で仕舞の稽古を習い始めたばかりの頃です。お稽古の時に「腰を入れて」とよく注意されました。今は皆さんに「姿勢を正して」としょっちゅう言っている私ですが、若い頃は猫背気味で内股で、学生時代に同級生の男の子から「内股でドタチャバ走り回る」と評されたくらいでした。動きもバタバタ落ち着かなかったのでしょう。ですから背筋を少し伸ばすことはできても、腰を入れるということがなかなか身に付かなかったのだと思います。

あるとき、先生のご自宅での稽古会で仕舞を舞うことがありました。仕舞を舞うひとが何人か座って順番に舞い、その後に座られた先生が地謡を謡ってくださるのですが、最初の人が舞っていて私が袴に手を入れて待機していたときのことです。

急に後から袴の背板の一点をグッと押されました。私は驚くと言うよりビンッと腰が立ち背筋が一瞬で伸びました。あとはそのままの構えで仕舞を舞うことができました。初めて腰が入ったという感じで舞えたのです。あとで聞いたら私の姿勢が悪かったので、真後ろにいらした先生が扇の要で突かれたのでした。稽古会ということもあり、舞台上でしたが注意してくださったのです。何度言われても直らなかったのに、扇のそのひと突きで体が理解できたのです。

扇の要

舞台に上がったら舞っていないときでも腰を入れて構えを崩さない」という、寡黙な師匠の教えでした。今はよく分かるのですが、いつも構えができていれば、立ち居も自然にできるし、舞になってあらためて構えを意識する必要がないわけです。

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それから何年か経ち、私は結婚して上京、最初の師匠の元を離れましたが稽古だけはどうにか続けながら暮らしていました。あるとき、思いがけず久しぶりに先生にお目にかかれたのです。あるご葬儀場でお焼香の列に並んでいたら偶然後に先生がいらして、拳の先で腰をチョンと押されたのです。一瞬で背筋が伸びました。出産・子育てでまた体が緩み姿勢が悪くなっていたのかもしれません。「能楽師を目指すなら常日頃から姿勢に気を付けなさい」ということをもう一度教えてくださったような気がしました。

その時は深くは分かっていませんでしたが、その先で能楽師にとって日常の姿勢がいかに大事かに、気付かされるときが来ました。私が素晴らしいと思っている能楽師の方の日常の動きをそれとなく見せていただいていると、そういう方は普段から上半身が揺れず動きがとても美しいのです。階段を上られるところを横から見ているとエスカレーターで上がってらっしゃるのかと思えるほど体重を感じない。「腰から動くということはこういうことなのか」と感じ入りました。これは子供の頃から稽古に励み、舞台を勤められ、無意識のうちに能楽師としての体が日常でも体現されているのだと思います。ということは、「おとなになってから能の世界に入り、ましてや家庭の主婦であり母であり、舞台も稽古も足りない自分が能楽師の体を作るためには日常から気を付けるということしかない」、その思いに至りました。

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この頃「能エクササイズ」といって仕舞では無く、能の動きを使って健康な体を作ることをお弟子さんに教え始めました。これは自分が能楽師の体を作るために努力しているうちに、日常で姿勢を正し腰から動くことが、能を舞うためだけでなく健康のためにいかに有効かを、身をもって感じたからに他なりません。

能楽師として舞や謡の構えを、また声の道場や能エクササイズで日常の姿勢の大切さを教えさせていただくようになった今、「腰」の重要性をもっと多くの人に伝えなければと思うようになりました。扇は要がなければバラバラになってしまいます。「腰」は字から見てもわかるように「体の要」そのもなのです。
 この頃になって、能の世界の入り口で教えていただいた「扇のひと突き」を懐かしく有り難く思い出すのです。

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