先日、事務仕事をしながら、なんとなく主人が見ていたテレビ番組を聞いていました。私の耳にスッと入ってた「想像力は年をとらない」という言葉に気を惹かれ、思わず画面を見てしまいました。番組はウォルト・ディズニーの特集だったのですが、
「笑いは時代を超える」「想像力は歳をとらない」「夢は永遠のものだ」
という言葉が画面に並んでいました。
これを見たとき世阿弥の言葉を思い出しました。
「命には終わりあり 能には果てあるべからず」
世阿弥が著した「花鏡」の中にある言葉です。
ディズニーの作ったアニメーションは時代を超えて人々に愛されています。もちろん、小説や絵本、漫画、演劇など他の分野でもそういうものはたくさんあります。それらの共通点を考えると、ストーリー以上に、「いつの時代も変わらない思い」が根底にある作品だということがよくわかります。
例えば狂言。もちろん「笑い」はありますが、爆笑というよりは、人間の持つ愚かさを人間らしさとして、観る人に「自分にもこんなところあるな」とか「自分もやってしまいそうだな」と感じさせる笑いが多いのです。いつの時代にもある、威張ったり、見栄を張ったり、ごまかそうとしたり、という人間の持つ愚かさや弱さ、それによる失敗や反省。ついつい笑ってしまい、観た人に「人間っていいな」というホッとする感情を引き出します。
「笑いは時代を超える」というのはそういうことなのかなと思いました。
私はワークショップなどで、いつも「能はおとなのごっこ遊び」とお話ししています。子どもは小さい頃によく「お店屋さんごっこ」「学校ごっこ」「おままごと」などなど想像力全開で遊びます。何も無いところを、いろんな場所に変え、いろんな人になり楽しむわけです。
能も舞台にはセットは無く、小さな作り物以外は何も使いませんし、昔の言葉と象徴的な型で物語られていきますから、演ずる方にも観る方にも想像力が無いと成り立ちません。逆に言うと観る人の想像力によって、どのようにでも捉えられるものなのです。
能のストーリーは単純です。映画や小説で山あり谷ありとなる前後の物語は、ほぼワキや前シテの話の中、あるいは間狂言で語られ、舞台で演じられるその中心は、シテの人としての思いのみ・・・母が子を思う、人を愛する、懐かしむ、悲しむ、恨む、怒る、後悔する、仏にすがる、神を敬う・・・などなどいつの世にもどこにでも誰にでもある感情です。笑いだけでなく、人間の「喜怒哀楽」これも時代を超える、だからこそ能は650年以上も演じ続けられてきたのだと思います。
能は難しいと言う方もありますが、少しだけストーリーがわかっていれば、観る人の想像力を引き出してくれる懐の深い芸能だと思います。おとなももっと想像力で楽しめることがたくさんあるはずです。「想像力は歳をとらない」のですから。
「笑いは時代を超える 夢は永遠のものだ」
という言葉に、世阿弥の「花鏡」の中の言葉
「命には終わりあり 能には果てあるべからず」
を思い起こした私でした。