能と日本画4

上村松園は美人画で有名ですが、その絵には美しいだけでなく、凛とした強さと品格があり、特に女性のファンが多いように思います。もちろん私も大好きです。能に題材を取ったものも多く描かれています。

ある展覧会で「花がたみ」を観たことがあります。松園の他の絵とはまるで趣が違いました。また、他の画家が能を題材にして描いた絵とも全然違います。それまで私は古典を題材にした日本画の方が能へのイメージが広がり、能そのものを題材にした絵は美しくてもイメージが広がらないと感じていたのですが、松園の描く照日ノ前(花筐のシテ)は、間違いなく能を絵にしているにもかかわらず、その絵から松園のイメージした物語が広がるのです。面を付けた能姿でもなく、衣装も能と違うのに、「能のイメージそのままと重なっている」と思えるのでした。
遠くを見ているような表情に赤みがさし、息遣いまで感じるような、生命感がありました。世阿弥はきっと狂女のこういうところに美を、花を感じて能にしたのかもしれない、と思わせるものでした。
能の狂女の着付けは唐織の片袖を脱いで下げたもので「脱ぎ下げ」という着方ですが、この絵を見たとき、「こういう狂女の姿をデザイン化したものなのだな」と改めて感じました。(巻頭の写真は、平成22年に私が花筐を舞った時のものです)

花がたみ
上村松園『花がたみ』

その後、松園について知りたくなり、随筆集(青眉抄)を読んでみたところ、能が大好きで40歳頃に初世金剛巌を師として謡の稽古も始めていたことがわかりました。有名な「序の舞」を観たときも「ただ写しただけの美しさではない、舞う人の内面まで感じる」と思ったのですが、やはり「能を外から観るだけで描いたものではなかったのだ」と納得しました。

本

「美しいものだけでなく、醜いものでも下賤なものでも、それを露骨に顕さず格調を持って表現している芸術は能の他にはない。画もそうでなくてはならない」「能ほど沈んだ光沢のある芸術は他にない」「能楽における簡潔化された美こそ、画における押し詰めた簡潔美の線と合致するもの」
と、自分の絵を描く姿勢に能を欠かさざるものと捉えていたようです。
「花がたみ」を描くにあたっても、実際の「心ここにあらざる人」の様子をよく見て研究し、目線に能面との共通点を見つけ、増阿弥の十寸神(ますかみ)という面を写生し、それを作品の生きた人間つまり照日ノ前の顔として写したのだ、といいます。それだけでも松園が、ただ単に能の「花筐」を観ただけで絵にしたのではなく、シテの照日ノ前の心に入り込み、「想い人を尋ねて彷徨う照日」という自分のイメージを持って制作したのだということがよくわかります。
それが他の画家の能を題材とした絵との違いであり、私が松園の物語に引き込まれた所以だったのかもしれません。

松園が描く美しい凛とした女性の絵とは趣が違う絵が他にもあります。「焰」という絵で、これも能「葵上」を題材としています。シテ六条御息所を描いていますが、やはり能のイメージと重なりつつも、時代設定も衣装も異なって松園の物語が広がります。間違いなく、光源氏への想いと自制しようとする心の狭間で、生霊になるほど苦しむ六条御息所の心が描かれているのに、です。
松園は40代の頃に、いろいろと心の葛藤がありスランプに陥って、展覧会にも何年か出品しなかったことがあるそうですが、それを打ち破るようにこの絵に心血を注いだようです。
絵の題名を決めるとき、はじめは「生霊」としていたけれど、どうも生々しい。何かいい案はないかと、謡の師匠(初世金剛巌)に相談し、そこで「焰」という題名に決まったそうですが、その折「嫉妬する女の美しさを出すのに苦労している」と話したところ、先生は「泥眼」という面の話をしてくださり
「嫉妬に苦しむ美しい女性を演じるときに使うことがあるが、白目のところに金泥を入れてある。その異様な輝きが時にはあふれる涙にも見える」
と教えてくださったのだそうです。
松園は「泥眼」の不思議な魅力を理解し、帰ってから早速「焰」の女の目へ絹の裏から金泥を施して最後の仕上げができたということです。

焔
上村松園『焰』

金剛巌師の舞台を観たまま描いたのだという「草紙洗小町」は、「その名演に面が顔にしか見えなかった」と語っていますが、能そのものを絵にしているにも関わらず、美しく凛とした松園の美人画です。装束や姿は能ですが、面と顔は同化し、小町そのものに見えます。「花がたみ」や「焰」のように松園がその世界に入り込んで描いているような感じがする絵とはまるで違うのです。本当に澄み切った凛とした小町です。

また「砧」は、妻の夫を想う姿、その内に秘めた心、を能から絵に写し取っていますが、能そのままではなく「砧打つ炎の情を内面にひそめている女を表現するには元禄の女がいい」と、その姿を松園の世界に引き寄せています。けれどもそこには外から見る冷静な目があり、作品には女性の凛としたつき抜けた美しさを感じるのです。


制作年月日を見てみると、「花がたみ」「焰」が40歳代なのに対し「草紙洗小町」「砧」はその20年程後です。松園の代表作とも言われる「序之舞」とほぼ同じ頃の作なので、いろんな葛藤を乗り越え辿り着いた境地で描かれた絵なのではないかと、それがあの澄み切った、つき抜けた美しさなのではないかと思いました。

面白い話があります。
謡のおさらい会で、松園が素謡で役を謡った際、あとで息子の上村松篁に
「私のはどうやった?」
と聞くと、松篁は
「上手下手は別として、とにかく堂々と謡ってはる」
と返したそうです。松園は笑って
「本人は良い気持ちで精一杯謡っているのだから上げ下げが多少どうあろうとも、なんの心配もなく楽しい」
と言ったとか。きっと役になりきって楽しんでいたのだろうな、と微笑ましい気持ちになりました。
どの作品を観ても、上村松園という人は芯の強い女性だと感じていましたが、このような逸話を知るとますます「肚の据わった堂々とした人だったのに違いない」と思うようになりました。

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