緑桜会稽古会終わりました

杉並能楽堂での稽古会、無事に終了しました。
会員の皆さんは存分に力を発揮なさいました。何人か体調に心配のある方があったのですが、一人もお休みなく催せたのはとても嬉しいことでした。

もしかしたら

「自分では満足できないところもあった」

という方もあるかもしれません。でも私は謡でも仕舞でも間違わずにできたかどうかは問題ではないと思っています。会当日の本番、特に素謡はいかにその曲に集中し、ドラマとしてそれぞれの役柄になれたか、精一杯できたかどうかが大事なのです。その意味で今回の稽古会では、どの曲もお客様が面白くご覧になれたのではないかと思います。地謡を謡っていてもそう感じました。

独吟や連吟の方も楽屋で聴いていて、それぞれ力が付いていらしたのを感じました。

仕舞では今回、

「何か地謡を聴いて舞っているうちにあっという間に終わった」

という方や

「フワフワしてなんとなく終わってしまった」

という方が何人かありました。それはよくないことではありません。私のこれまでの経験からいうと、却ってそんなときの方がよく出来てることが多いのです。

ひとつひとつ丁寧に舞うのはいいのですが、「あそこはこうしよう」「位置はここでいいのかな」などと考えながら舞うと、その部分は自分の素が出てしまい流れが変わって、運びが遅くなったり、却って謡に乗れなくなることが多いものです。

稽古の時はそういうことも必要なときがありますが、本番では「頭で考える」のではなく「謡に乗って」何も考えず舞えた時の方がその曲に入り込めている、ということなのでしょう。

今回は仕舞の途中で、私が地謡以外の声を出したり、指示をするということは一度もありませんでした。途中何かあっても皆さんがスムーズに動いていらしたからです。「誤魔化す」というと言葉が悪いのですが、何かあってもそれなりに曲を演じられたということだと思います。お客様は舞う人の型や行き道をご覧になっているわけではありません。その曲をご覧になっているのです。

もちろん行き道を考えなくていいくらいに覚えた後、お稽古を重ねた上でのこと、決してうろ覚えでなんとなく舞ってしまった、というのとは違います。「頭で覚える→体で覚える」。その→のところが一番肝心。その上で本番を迎える。それまでに身に付いたものは自然に表れます。それは皆さんしっかりできていました。

謡にしても仕舞にしても、稽古で何度も直され頑張っていらした技術的なことは、ずっと先へ続く課題なのです。その会ですぐできることでも終わりでもありません。うまくいかなかったとしても先に繋がればいいのです。

「本番では謡も仕舞も今の力でどれだけその曲をやりきれたかが大事」

といつも私が言う所以です。

お教えして来た私としては、稽古年数に関係なく、会員の皆さんのこれからがとても楽しみになった、そんな会でした。

会を通して、先生方はじめ会員の皆様のご協力によって、とてもスムーズに気持ちよく会を進行することができました。
私自身も年始めから傷めていた手首を、治りかけとはいえ心配していたのですが、どうにか持ちこたえることができました。テーピングやケアの仕方がわかってきたことで、安心して着付も手伝うことができたのは嬉しいことでした。

何につけても本当に感謝いっぱいの会となりました。

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