私が初めて面を付けて能を舞わせていただいたのは28歳のときでした。本当は父が70歳の古稀のお祝いに舞うはずだったのですが、糖尿病がひどくなり立ち居がままならなくなったため、代わりに私に舞うようにということになったのです。
当時私は仕舞を何番か教えていただいた後、笛がわかるからと囃子の入った舞囃子をお稽古していただいていました。いろんな囃子の会で出演の機会があり、年に3、4番は舞囃子を舞わせていただいていましたが、面を付けての能は初めてです。
曲は「羽衣」に決まりました。小鼓は80歳になられた人間国宝の幸宣佳先生が
「羽衣なら打ちましょう」
とおっしゃってくださり、大鼓は柿原繁蔵先生、笛は松尾千代太先生と私の両師匠がお相手してくださることになりました。
能舞台でいつも稽古できるわけではないので、面に慣れるために小さな穴を空けたボール紙の面を掛けてよく見えない状態をつくり、家の廊下ですり足の運びを稽古しました。天冠に似たような物も作り頭に載せ、大きな風呂敷で袖掛の練習をしたりして疑似体験でイメージを膨らませました。その上で本舞台の住吉神社能楽殿での先生からのお稽古を重ねていただき、会当日を迎えました。
精一杯夢中で舞終え、本番のことは何も覚えていないのですが、あとから柿原先生が
「幸先生が、久しぶりに羽衣らしい羽衣だったね、とおっしゃっていたよ」
と褒めてくださったのが、とても嬉しかったのを覚えています。多分「若さ故の羽衣らしさ」だったのではないかと思うのですが・・・。
コロナによる自粛で思いがけない時間ができ、カセットテープを整理していたら、その時のテープが出てきました。懐かしい柿原先生の掛け声、松尾先生の笛の音、なんとも言えない幸先生の小鼓の音色・掛け声。幸せな初能だったなと感慨深く聴き入りました。
自分の謡はというと、若くて張りがあり、確かに羽衣らしかったかもしれませんが、謡始めの一文字目が聞き取りにくく、気になりました。声の道場主としては
「お腹で掴めてない」
と44年前の自分の謡にダメ出しをしてしまいました。
私が初めての能を舞った住吉神社能楽殿は、当時西日本有数の能楽殿で、昭和61年に大濠公演能楽堂ができるまでは、大きな能の催しや社中の大会はほとんどこの舞台で催されていました。ですから私たち能の稽古をしている者に取っては聖地であり、憧れの場所であったわけです。田中一次先生や金春惣右衛門先生を見続け、梅若景英先生に触発されたのも、すべてこの場所でした。
昭和13年に建てられたこの能楽殿は、今では珍しいと思いますが舞台の音響効果のために床下には甕が埋められています(写真参照)。私が舞わせていただいた頃は築36、7年だったと思いますが、黒光りした檜の舞台で足を運んだ感触は今でも残っています。昭和の時代、第二次大戦の戦火もくぐり抜けて多くの能が演じられ、その中で多くの能楽師、能楽愛好者を生み出しました。有名な博多人形作家の小島与一さんは能の人形も多く作られていますが、この桟敷席の一番後の腰掛けに座り、熱心にスケッチをされていたと両親から聞いています。
もちろん冷暖房などはなく、冬の寒いときには手あぶりの火鉢が、夏の暑いときには氷柱が置かれました。四月の囃子の会の時には窓から桜の花びらが舞い込んだり、お日柄がいいと本殿での結婚式の太鼓が「ドーン」と聞こえたり・・・。下足番のおじさんと言葉を交わし、休憩時間はその場でお弁当を広げて周りの方とお話を楽しみました。本当に皆さんがのんびり心から能を楽しんでいらっしゃったように思います。
今回写真を使わせていただくにあたり、住吉神社の社務所にお電話をしたところ、まだ能楽殿は私の知る当時のままだそうです。さすがに老朽化が進みこのままでは使えなくなると言う危機感から「住吉能楽殿を守ろう!」という方たちの運動が高まり、これから補強工事というところでのコロナ騒動。舞台を使うこともできず、すべてがストップしているということです。今の状況を乗り越えどうにかしてこの能楽殿が息を吹き返しますように、心から願っています。